訳詞演奏の意義

大村恵美子
(訳詞者、東京バッハ合唱団主宰者・指揮者)


原詞か訳詞か?(1964年5月)
モテットの原語上演(1971年3月)
カンタータの日本語演奏(「礼拝と音楽」第45号、1985年4月)
バッハの心、日本語で歌え(日本経済新聞、1997年2月3日)



原詞か訳詞か?
(東京バッハ合唱団「月報」第23号、1964年5月)

朝日講堂で行われた合唱指揮講座で、クルト・トマス氏は質問に答えて、「どんな努力をはらっても原詞で歌うように」と言われました。ヨーロッパ髄一のバッハ音楽専門家からこう言われたのですから、もう安心して原詞一本槍にきめようと思った人もあるかも知れません。しかしこれはそれほど簡単な問題ではないのです。たとえば私たちが、謡曲や長唄を訳して歌ってもよいかと外国人から尋ねられたら、そんなこと不可能だと答えたくなるでしょう。ドイツ語や英語で歌われる邦楽など、想像もつかないからです。つまり自国語の芸術をもっている人には、原型をそのまま生かすことが自明のことであるのは当然でしょう。ところで立場を逆にして、持たざる側から見ればこれは多くの難点をはらんだ問題となってきます。ことばという不可思議なものは、誰にとっても根源的な力をもっているもので、作曲家がことばに即して音楽の動きを得たとすれば、一方それを受けとる側も、ことばを手がかりとして音楽を受けとるわけです。どちらにとっても重要なこのことばが、自国語と他国語というふうにずれていたならば、その場合には何を調節すればよいのか、そういうことなのです。

私は昨年[1963年]12月23日の東京バロック音楽協会のクリスマス演奏会のプログラムに、次のように書きました。「……シュヴァイツァーは自叙伝の中で、人間というものは本来、一ヵ国語で思惟するものだと述べ、また他の個所で、バッハのカンタータの自由な自国語訳をすすめています。あの独仏両文化をこなしきったようなアルザス人にしてそうなのですから、ドイツ文化から程遠く生きている私たちが、ドイツ語で思惟できるとはとても信じられないことです。歌いながらあるいは聴きながら、たとえ同時に日本語による意味を思いうかべたとしても、それは音楽による思惟と全く別な作業をしていることなのです。私は、他国語によってどんなに表情豊かに歌っても、それは浅い次元における上手なお芝居、熱心な学習にとどまってしまうということを、滞欧中にほとんど確信するに至りました。少くともバッハの教会カンタータは、ぜひ内容をわかって歌いたいという気持で訳詞をつづけてきました。これが果して全カンタータに及びうるものかどうか、今のところ何ともいえません。それに全カンタータをしらみつぶしに歌おうとする必要もないでしょう。やはり私たちにも選ぶ自由はあります。選び方にもバッハ合唱団の性格を見ていただくつもりです。バッハ以外の作品については問題はまた違ってくると思います。バッハでもモテットとなると、訳詞の試みは適用されないでしょう。音楽とことばの関係を実験しながら考えてゆこうとしているのです……」

ではこれから、少しこのことを考えてみましょう。こどばには大きく分けて、ことばの背負わされている論理的な意味と、語感による印象内容と2つの要素があると思います。私たちがことばによって、まず最小限度、伝えねばならないのは、第1の要素であって、これは全世界ほとんど普遍的に対応する語が存在しており、私たちが外国を旅して、思わぬうがったところに同様の表現があるものだと驚くことがよくあり、外観はちがっても人類というものはよくよく同じなんだなあと、親しみをおぼえるのもこんな時です。ですから私は、あらゆる国の人々が自由に旅行し、交って、こんな経験をごく一般にくり返すことが、世界平和の一番の近道だと思っているわけです。

訳詞をするときにも、テキストの論理的意味は正確に伝えられねばならず、それはある程度可能です。どんなときにそれが容易かというと、ある短いテキストが、割合いゆったりしたメロディによって何度もくり返される場合です。ポリフォニックに旋律が動くバッハのカンタータの合唱曲には、こういう例が多いのです。コラールメロディが1声部でゆっくり歌われて、他声部でこまかくくり返される場合には、コラールメロディの声部では最小限の論理的構造を保たせ、接続詞や形容詞は他声部のこまかい動きで補うということもできます。コラールメロディは、ことばとしての機能よりもむしろ持続音としての音楽的支柱の働きに重点があるわけですから、その声部だけによって内容を聴きとろうとは誰もしていないのです。ただし外国語と日本語の構造の順序が逆になることはよくあることで、日本語では「……なので……である」というのを外国語では「……である……なので」となることが多く、しかもその両フレーズの間が間奏で区切られてしまったりするのですが、これは場合に応じて断定的な性格をもつとき、メロディが内容の性格によってはっきりと異なるときにはヨーロッパ風に従い、置換可能なときには日本語の自然な順序を生かします。またひとつの名詞に音楽的性格描写があたえられる場合、それは一致させたいのですが、主語と述語の位置がどうしても逆になることがあります。バッハのカンタータの場合は、ひとつの名詞よりも、多くはひとつのフレーズの意味からくる情緒、あるいはひとつの名詞の意味があたえる印象の広範囲な普及が音楽を成り立たせているので、かえって1音1音に対応することばの正確さよりも、1フレーズの内容把握の正確さのほうが、それに対応する音楽を生かすようになると思われます。ただし同じバッハのモテットや他の多くの近代音楽では、反復なしの、ことばそのものからくる音楽構造がありますので、そういうぎりぎりのことば重視の作品は翻訳不可能なわけです。

ところで今度は、ことばの第2の要素の語感ということですが、これが大いに問題のあるところです。これこそ翻訳不可能なものであり、またいくら学んでも習得しきれないものです。単語についていえば、国語によってはそれが意妹するものと正反対な感じを受けるものもあります。私個人の経験では、ドイツ語のzart(やさしい)ということばをどんな具合に感じていえば適切なのか、どうしてもぴったりときません。zartにかぎらず、概してドイツ語はいわば不感症のことばであるということはよく言われることで、ドイツに行って人々が日常しゃべっているのをきけば、なるほどあれで生活できるのかと納得いきますが、また半面、彼らの生活そのものに、あのことばを使う民族ならでは、という私たちとのかけはなれた感覚の差を痛感することしばしばです。ドイツに永く住んで日本語よりドイツ語のほうがよくなってしまったという人があるとしたら、その生活態度自体に何かうそがあるように思います。とにかくどの国語にせよ、そのことばのなりたちには意識以前の歴史があり、辞書に書いてあるように、私=Ichというわけにはゆかないものなのです。そして、それだからこそ、原語は尊重してそのまま使おうということにはならないと思うのです。なぜなら、私たちがいくら尊重したつもりでも、ふだん使ったことのないことばの感じは、習得することができないからです。わからない感じを、わかっているかのように歌うからこそお芝居となりおさらい会となり、人の心にまで入ってゆかないのです。いかにうまく似せたかということが最上の目的となり、生きたものまでは問題にもならないのです。  さてかりに、単語をひとつひとつ克明に勉強したとしましょう。それを今度は音楽にのせて流してみると、またこれが違った感じのものとなります。日本語でもそうですが、どの国語でも、前後のつながり具合によって、単語の発音は生きて動きます。その微妙な軽重・遅速・大小を、いったいどうやって感じとればよいのでしょう。私たちが苦労してレコードなどで本場の人たちのまねをして、かなりドイツ語らしくなったのではないかなどと思っても、ドイツ人の子供からだって見やぶられます。感じ方も異質であるばかりでなく、発音機能の生理的構造までがはじめから違っているからです。東北弁の人が、ついに江戸っ子のべランメエを習得しえないようなものです。そして生まれつきのものをたたき直すような苦労までして、それを誰に聞かすのかということです。ドイツ人にきかせれば「日本人にしてはよくやった」というかもしれません。けれど彼らがそれによって感銘をうけるとすれば、よくここまで熱心に表現できたという感銘にすぎないでしょう。日本人の聴衆にはもちろん日本人の歌うドイツ語など理解できません。歌っているほうはなんとかしてドイツ語らしく、という過重の配慮のために、あちこちで自発的な ― つまり芸術としての表現意欲をそがれてしまいます。感動の昂揚した表現のときに、日本人のドイツ語だな、とばれてしまうことはよくあることです。

「日本語で歌うのはどうもむつかしくて」とおっしゃる日本の一流歌手たちが、現在では圧倒的多数のようです。そうやって一般聴衆はだまされているのです。高級そうな芸術家 ― 実はおさらい会的段階で疑問をもちえない人たちです。  日本語で歌うバッハのカンタータを、聴きたいと思う外国人はいないかもしれません。しかしドイツ語で日本人が歌うバッハを、わざわざききたいと思う外国人もいないでしょう。でも外国人がバッハを日本できくならば、日本人にこなされたバッハを聴くより他ないので、ドイツ語で歌われるにしても、日本人のつくるバッハであることにおいては変りないのです。ドイツ語の語感はないけれども、日本語でよくわかって演奏した場合、なるほど日本人がバッハを歌うとこうなるのかという興妹もありましょうが、それにもまして自ら表現しえた音楽の心は、ことばを超えてしっかり相手の心に伝わるということは、かならずありうると信じます。第一にまず歌う人がわかっていること、これは中途半端でなく、徹底されていなければなりません。2度3度辞書を引きました、などという程度のことではないのです。何がいちばん〈心〉にとって大切か、これが私たちの歌の基本でなければならないのです。  さてそこで今度は日本語訳の問題になりますが、これは音楽を殺さない翻訳ということで、その優劣は非常に重大な結果を及ぼすことはいうまでもありません。実際、ないほうがましの場合が多いかも知れません。しかしこれは、以上の結論とは全く別の話です。訳詞がどうしても必要と認められれば、優れた訳詞もそのうち生まれるでしょう。中途半端な、便宜的な気持から訳詞をつければ、自然いい加減な出来ばえとなるわけです。訳す場合には「いったい何が必要なものか?」を絶えず自問してみなければならないでしょう。これはクルト・トマス氏からもどんな偉い音楽家からも教えていただくことのできない、現在の私たち自身の課題なのです。

(「東京バッハ合唱団 三十年の歴史」94-100頁に再録)



モテットの原語上演
(東京バッハ合唱団「月報」第104号、1971年3月)

「バッハ合唱団もいよいよ原語でなさるそうですね」などと挨拶されたりします。つまり、いまや準備段階を卒業して、本格的になりつつあるとでもいうような具合に。
 今年[1971年]は、モテットばかりを、「原語」で歌うことになったのですが、いったいどうしてそうするのかといえば、説明はちょっと長くなりそうです。ずいぶん以前に(月報第23号[当ホームページに再録])、長々とこの問題について書いたことがありますので、私達がこれでずっと、訳詞で歌ってきたことのいいわけは、私としては、はぶきたい感じがします。リュック=アンドレ・マルセルの『バッハ』にも「普通行われているようにカンタータを原語でうたっても、なにも解決したことにはならない。というのも、原語のわからない聴衆には、歌詞と音楽との微妙な一致を感じとることができないからだ」という一節があり、それではどうすればよいのか、ということになるのですが、その一策として、私たちは訳詞をつけてうたっていたわけです。

いちばん肝要なことは、歌う本人が、本当にそのテキストによって、心をかきたてられるということなので、それが欠けるかぎり、何ごとも始まるわけがありません。人間の行為には、意識の部分と無意識の部分とがあって、歌うという行為の場合には、できればなるべく無意識の部分が多いほうがよく、無意識の底からつきあがるものがあってそれが自分自身の感動となり、ひとをも動かすものになってゆくのだと思います。それが、自分の自由にあやつれる言葉でない場合、たかだか数ヵ月間の反復練習によって無意識にまで馴らされる面というのは、どうもことばの内容をぬきにした形骸であることが、あまりにも多すぎるようです。もちろん、その形骸についても、「ドイツ語特有の音楽的な抑揚」などといって楽しむことはできます。そして、音楽の場合には、意外とそれだけを追ってもかなりの本物らしさに到達するという、音芸術の特権があるのです。フォークソングに夢中な若者たちが、新しい歌を次々とこなして歌うので私などびっくりするのですが、内容なんかは、レコードに訳がついてくるまでは全くノータッチのようで、あれだけ理解できる英語の実力があったら、それこそ英文学者なども顔まけでしょうけれど、けっこう「フィーリング」だけでどんどんそれらしく歌ってしまうのです。

しかし、それも必ずしも糾弾すべき浅薄なこととは限らないから話はややこしくなります。私は、わかってもいないことを、「フィーリング」でそれらしく歌うのはやはり浅薄といいきれないまでも、わびしいと思いますので、そこから出発はしますが、だからといって、日本語で歌えば誰でも容易に感動を得られるということでもなく、かえって今度は別の意味でスルスルとことばの上を上滑りする危険も出てくることはじゅうぶん考えられます。まったく厄介な問題を声楽というものは古今を通じて負わされているのです。

では、どっちをとるか。不自由ではあるけれども、コツコツと身につける努力をして、原語にとり組むか、それとも多少イビツな外形を覚悟で訳詞で親しむか。私はどうしても、前者が少数インテリの教養趣味となり、多数庶民の道は後者にならざるをえないと思うのです。いくら大学の第2外国語にドイツ語がおかれているからといって、たとえまじめに大学に行ったとしても、ドイツ語で思考できるようになる人は、まず皆無です。ましてや歌いながら古いドイツ語の詩の内容を、理解した上でさらに共感しようというのは、凡人にはとてもやりきれない芸当です。

ではなぜ、今年はドイツ語で歌うのですか。それは早くいえば、こういう探刻で不可避な問題を、歌う一人一人が実地に受けとめ、日本語でも無感動でスルスル歌わなくなるようになのです。バッハという巨像を、別の角度からなでまわしてみるためといってもよいでしょう。結果はやはり、「とてつもなく大きいものだ」にもどらざるを得ないでしょうけれど、なでまわしもしないで初めからそういっているのとは幾分違ってくるはずです。モテットは、そのために、いちばん純粋で切実な経験をさせてくれるであろうということなのです。このことほ、毎回のモテットの練習ですでに身をもって会得されつつあることでしょう。

冬の間出席率のよくないのは、今年に限ったことではないので、「原語モテット」が現在多くの人の士気をそいでいるのかどうか、私には判断できません。ただ、大変だからとおどす気もないのです。むしろ何が今年になって特に大変なのか、よく考えてみたい。つまりそれでは訳詞カンタータなら何が楽なのか、ということです。

創立10周年記念に際して華々しく原語モテットを、ではなく、創立10周年を迎える前に、原語モテットも勉強しておこう、というのが私たちの構えなのです。だからそれは来年ではなく、今年なのです。肩ひじ張らず、虚心になでまわしてみることにしましょう。音楽歴、合唱歴のゆたかな一部の教養人たちが得意になってひけらかすモテットではなく、庶民が平気でなでまわしているうちに、発見してゆくモテットを、私は聴きたいのです。春は、庶民を歌にかりたててくれることでしょう。

(「東京バッハ合唱団 三十年の歴史」100-103頁に再録)



カンタータの日本語演奏
(日本キリスト教団出版局「礼拝と音楽」第45号、1985年4月)

◆バッハの普楽を愛するには
 〈きよし この夜 星は ひかり〉(訳詞・由木康氏)。この讃美歌は、今ではどんな人々の集まりでも歌われます。クリスチャンであろうとなかろうと、プロテスタント、カトリックであろうと、また外国人であってもそれぞれの国のことばで歌いかわして、どこででも唱和できます。もしかりに私たちがこの讃美歌の独自性を尊重しようとして、ドイツ語のままをとり入れるとしたら、世界中でこの歌が歌われる機会は、どれほど減ってくることでしょう。日本にいる私たちなどは、この歌をドイツ語できくよりも英語できくほうが多い位だし、どうかすると日本語の他に英語をつけて出版されているような楽譜も多いので、原語は英語だと思っている人もかなりあるのではないでしょうか。それほどこの曲は、もはや国際性をおびたものになっています。

私は、バッハのカンタータが、この位に普及することを夢見ているものなのです。カンタータの中から1つの合唱曲をとり出して、お母さんコーラスで演奏することがありますが、講評をくださる先生方の中には、「バッハは専門家が学んでも難しいものです。あなた方はもっと実力相応のものを選んでお歌いなさい」などと、忠言される方が時々いらっしゃいます。また私の主宰している「東京バッハ合唱団」が、原則として日本語の訳詞をつけて演奏していることはご存知かと思いますが、原語でないから、という理由で、まずほとんどの音大生が入団して来ないのです。こういう方々は、それでは原語で歌う努力をしているのでしょうか。そして、原語で歌う機会をつくったとして、何を歌うのかドイツ語をマスターして身につけるだけのことを本当にしておられるのでしょうか。結果的にはただ、外来演奏家のものやレコードを聴くほうにまわるだけで、あれはこう、これはこう、と、高級な議論をもてあそび、そしてしろうとがバッハにふれるのを妨げているだけなのではないでしょうか。どちらがバッハを愛していることになるでしょう。

ごらんなさい、そのうちドイツの聖歌隊が日本にやって来て、ゲヴァントハウスとかでない、寄せ集めのオーケストラなども連れてきて、どこかの教会で、日本の聖歌隊と、カンタータを共演しましょう、というような交歓会が、あちらこちらで出来るような時代がくるかもしれません。そんな時、学校を出てドイツ語の多少できるような人を、大急ぎで集める必要はないのです。教会員の構成のまま、いろいろな年齢、いろいろな程度の人々のままで、日本語で歌って、一向にさしつかえないのではありませんか。その訳語が、ドイツ語の語勢に合わせて音符につけられているかぎり、日本語とドイツ語と同時に歌っても、バッハの音楽はそれをみごとに包みこんでくれ、同時に同じ感動をあたえてくれると思います。そんなふうにして、あらゆる機会にあらゆる場所でバッハを歌うことこそ、バッハを愛するもののとる道ではないでしょうか。バッハはむずかしい、といって、眉にしわよせて一生に1曲や2曲学んだからといって、バッハのいったい何がわかるというのでしょうか。どんどん歌うこと、どんどん自ら演奏すること。もう外来演奏家やレコード専門の段階から、脱け出してもよい頃ではないでしょうか。

◆ドイツで歌った日本語訳詞のカンタータ
1983年8月、私たち東京バッハ合唱団60名は、東西ドイツとフランスで、8回の演奏会を開き、バッハのカンタータ2曲、モテット3曲を演奏しました。何がいちばん高く評価されたとお思いですか。1曲だけ日本語の訳詞で歌った、カンタータ4番だったのです。もちろん、モテット1番も、音楽のすばらしさに応じて、特に終曲で高揚し、聴衆を熱狂に巻きこむことができました。他の曲もそれぞれに長い新聞評でまじめに評価していただけました。けれども、彼らにとって全く異様な日本語でも、まごう方なきバッハが鳴りひびいた、という驚きで、カンタータ4番は、特に話題になったのです。これは、1984年9月に、東ベルリンのアンメ牧師が来日され、その歓迎演奏会でも確かめられたことで、アンメ牧師も、日本語でバッハが同じように心に伝わる、ということをくり返し喜んでいらっしゃいました。

こういうような事実は、演劇の面でも、オペラでも、ありうることで、日本人がギリシャに行って、ギリシャの劇を日本語で演じて、感動をつくり出すとか、アメリカに行ってドイツのものを日本語で、などということは、大いにありうることです。私が昔、スイスのバーゼルで見た「カルメン」のオペラは、原語はフランス語ですが、ドイツ語で演じられ、しかも主役はアメリカ人でした。こうなると、話は混乱してきますが、もはやバッハのカンタータの原語演奏は不可侵、というこだわりは、考え直してもよいのではないか、と申しあげたいのです。

教会のために書いたバッハの音楽が、日本の教会で歌われないのはなぜか。これは、第一に適当な訳詞がなかったからだといえるでしょう。

◆バッハのカンタータを日本の教会にとり入れるには
バッハのカンタータが、なぜ日本の教会に普及しないのか。さきほど、訳詞のことをあげましたが、その他にも原因はいくつもあります。日本の教会は、音楽が好きでないということが根本にあります。音楽によって人間の心が高揚する、その効用を、受け入れていないのです。一にも二にもきめられた讃美歌、それしか考えていません。これが最も楽で、安全なお仕着せだからです。教会の外でどんなに高級な作品にたずさわっている音楽家でも、教会ではそれ以上の努力をしようとしない。要求もないからです。そして、バッハの音楽を完全な形でするには、予算がない。独唱やオーケストラは、ただでは演奏しないから、カンタータを実現することができない。おまけに、独唱、合唱、オーケストラ全員が乗る場所がありません。中には小規模な作品もありますが、そういう、合唱とオルガン以外のもろもろを礼拝の中にとり入れるという習慣がない。

したがって、バッハの作品を完全な形で実現することを主眼におくならば、現在の日本の教会は、建物自体がほとんど不適当です。最近パイプオルガンを設置する教会もふえて来ましたが、オルガニストが1人で演奏することしか考えておらず、合唱と協演するための位置をあらかじめ考慮されている教会は本当に少ないのです。

私が1962年に東京バッハ合唱団を始めた時、私の頭には教会の聖歌隊で歌う、という考えはありませんでした。私が留学していた、その頃のストラズブールでは、まだまだ聖歌隊の活動がさかんで、市内の主だったいくつかの教会は、競って聖歌隊を育て、それぞれ数十人という隊員を維持して、オーケストラもつけ、独唱も入れて、日常の礼拝でも、定例の国際音楽祭でも、あらゆる機会に大小の宗教作品を次々に市民におくりこんでいました。そこから帰国した私ですが、さすがにそのままを日本の教会に持ちこめるとは思えませんでした。あの湧き出るような聖歌隊員の活力を、日本の教会の中に探し求められるものでしょうか。教会学校教師を兼ね、役員を兼ね、もろもろの当番を一身に兼ねてあたふたと落ちつきなく参加している日本の教会の聖歌隊員を、私はとてもたよりがいのないものに思いました。

そこで、バッハのカンタータをこまぎれにして、出来る範囲で礼拝にとり入れてゆく、という方法をとらず、むしろ、フランスでは「コンセール・スピリチュエル」と称して、どこの教会でも年に数回は催している、礼拝以外の、教会を会場とした特別演奏会の形を目標として、バッハの音楽ばかりをレパートリーとする合唱団を、一般公募してつくったのです。

この目標も、最初の数回で、あやしくなって来ました。先にもあげた通り、教会というスペースの無理、経済面での無理が、はじめから歴然となったからです。こうして、教会からはじき出された形で、バッハ合唱団は年数回の演奏会を、演奏会場で行なってきました。けれども、1983年のヨーロッパ演奏族行で、私たちは東ドイツ・ライプツィヒのトマス教会をはじめ、いくつもの教会で、満堂の教会員・一般聴衆と共に、バッハが思い描いていたものとそれほど違わないであろうと思われる、カンタータによる魂の交歓を、まさにその母胎となった教会の中で、なしとげることが出来たのでした。これは私にとっても、大きな啓示でした。

◆大きく開かれた神に至る入口
弱いものが強いものに変身させられる、これがキリスト教の「ご利益」であろうと、私は信じています。弱いものの寄り合いで、いつまでたっても弱さに安住していては、ほんとうの信仰とは言えないのではないか。よくまじめな宗派の方々、正義派の教会員が、信念をもってこういわれることがあります。

「聖歌隊や、教会でみんなの前で教会音楽を歌うものは、一般会衆に先立って信仰のあかしを神にささげるのだから、信者でないものが入っているのはおかしい」

ごもっともです。しかしこうしてまた環はせばまって来て、神を讃美するものは数少なくなってゆきます。美しい力強い歌をもって神を讃美すること、これはこの世界に生をうけた、あらゆるものの出来ることです。それでなくて何で一刻も生きつづけることが出来ましょう。音楽の専門家が、立ちはだかってしろうとからバッハを遠ざけようとするのと全く同じように、クリスチャンという信仰の専門家が、立ちはだかって未信者から神を遠ざけようとしてよいものでしょうか。バッハの音楽の生の美しさ、強さを通して、本当の生の美しさ、強さを感じとり、高いものに向かってあこがれる心を養う人々は、教会外にも限りなくいます。どこから信仰を得ようと、大いにけっこうなことです。未信者が中に何人いようがいまいが、神様に近づく第一歩は、あらゆる人が毎朝同じスタートラインに立って始めることです。どんな差別も笑ってふきとばす方が、私達を見ていらっしゃいます。日毎に大きな心に帰って、あらゆる卑小なものを巻きこんでしまう滔々たる流れに、我が身を投じる、そんな気慨があってこそ、私たちの生は充実してゆくのではないでしょうか。

◆バッハ生誕300年記念の年に
私は、もっと、このようにしてバッハのカンタータの日本語演奏はなされるべきである、という具体論を書くべきだったのかも知れません。しかし、訳詞という作業は、伝えられるものではありません。やってみたいという気持を抑えられないものが、必要に応じて試み、あれこれと実地に学び、自分で切りひらいてゆくものです。そして、それを利用する側は、訳者がいくら講釈を並べようと、使ってみて、これはいい、と感じたものを使うまでで、それがどんなに苦心の作であろうと、反対に気軽に出来たものであろうと、そんなことは全く関係ありません。とにかく、まず楽譜を手にとってみること、出来あがりの演奏をきいてみること、自分でも演奏を試みてみることより他には、ありません。

バッハのカンタータの場合、特定の日のためのカンタータという但し書きがあって、私はこれも一つには近づくのを面倒がらせている要因になっているのかとも思いますが、けっこういつ歌っても普遍的に受け入れられる内容も多いのです。そういう衒学的な障碍物はいっさい後廻しにして、作品そのものに体あたりしてみることです。もちろん、1曲全体が、起承転結のすばらしい理論的・芸術的効果をもっているものではありますが、そんなことも後廻しにして、ソプラノとアルトだけの二重唱とか、コラールの斉唱とか、とっつき易い部分も多く含まれていて、礼拝の短い時間の中にも十分とり入れられるものなのです。それを探し出す労をとる位は、聖歌隊のリーダーならば、出来るでしょう。そんな風に歯が立つところからかじり出すということも、バッハは大いにゆるしてくれます。バッハは寛大なのです。

バッハ生誕300年の今年[1985年]を機に、いよいよ本腰を入れて、バッハというものすごく大きな宝を教会が生かすために、それぞれの場で努力を始めてみたいものです。

(「東京バッハ合唱団 三十年の歴史」280-287頁に再録)



バッハの心、日本語で歌え
◇「宗教歌曲集」69曲を邦訳し出版 ◇

(日本経済新聞、1997年2月3日夕刊)

西洋音楽を取り入れて1世紀、日本人は世界にそびえる山の頂点をひたすら目指し、登りつめ、追い付こうと猛進してきた。だが、その音楽が伸びやかに語ろうとしている、本当の内容に落ち着いて耳を傾け、心の歌をまず、自分の内奥に向かって響かせてきたのだろうか――。

私は35年前に「東京バッハ合唱団」を組織して以来、ドイツ音楽の「父」とも呼ばれるJ・S・バッハ(大バッハ)の声楽作品を数多く上演、演奏者の視点から、歌詞の日本語訳にも取り組んできた。訳詞で内容に親しんでいれば、いざ原語で歌う場合にも理解が深まり、バロック音楽全体への視野が広がると確信してきたからだ。

◇込められた深い気持ち
それだけに1991年、ドイツの新バッハ協会から「宗教歌曲集」の楽譜が「新バッハ全集」の一環として配本された時は、「これでやっと、家庭でも、バッハが日本語で歌えるようになる」と心を弾ませた。50年代から始まった同全集の出版は、半世紀近くを経た現在も延々と続く、まさに世紀の偉業。私も年数回の配本を心待ちにしている一人で、昔から多くの声楽家の友だちに「『宗教歌曲集』が出たら、早く日本語に訳してほしい」と頼まれていた。新バッハ全集による完全な形の出版は、好機の到来であり、楽譜を手にした途端から訳詞の作業を楽しみ、早いペースで出版までこぎ着けた。

大バッハの器楽・声楽作品には1120番までの番号(バッハ作品番号=BWV)が付けられている。中には「マタイ受難曲」のように演奏時間が3時間半に及ぶ、長大なものもある。

BWVで439から507までの、69曲からなる「宗教歌曲集」には、バッハが作曲したわけではない作品も含まれている。同時代の有名、無名の作詞・作曲家の日常の信仰にちなんだ歌曲にバッハが手を入れ、彼の友人シェメルリが出版した。このような歌曲集が、当時はたいへん流行したらしい。教会の礼拝時に会衆で歌う「コラール」(讃美歌)にも似ているが、それより一層、個人的な心情を深い気持をこめ、歌おうとしたものが多い。

◇家庭で手軽に親しむ
バッハも家庭の集まりで歌い、楽しんでいたようである。ドイツには当時以来の伝統が各家庭や音楽愛好家、音楽学生たちの間で受け継がれた。

私が「歌曲集すべてを訳したい」と長年夢見てきた理由も、バッハの声楽曲の中でも最も手軽に歌え、個人や家庭のだれもが親しめる作品だからだ。ちょうど鍵盤曲の「インヴェンション」や「小前奏曲・フーガ」などと同じ。ピアノを習って数年を経て、バッハを弾かない例は少ないように、声楽でも家庭に「宗教歌曲集」を置き、「折りあるごとに歌ってみる」との位置づけが、日本人の洋楽体験で見落とされがちだった部分を、補うように思われてならなかった。

◇原語より自然な共感を
とはいえ、待望の翻訳作業に「苦労がなかった」と言えばうそになる。ドイツ語を訳す場合、大変なのは、ドイツ語では1つの音符に意味のある1単語を充てることが可能なのに、日本語では“字余り”となってします。ドイツ語なら「コム・ズューサー・トート(Komm susser Tod)」だけで「甘き死よ、来たれ」を意味し、主語と述語の完備した歌い出しが成立する。

現行の「讃美歌」第二編223番の訳では「やすきよ/いこいよ/平和よ来れ」と3倍の音符を費やし、やっと述語に届く。私はまず「死よ来よ」と始め、続いて「いこいよ/安きにみちびけ」と補足した。

この歌曲集で「フェルギス・マイン・ニヒト(Vergiss mein nicht)」と始まる歌は36番、44番と2曲あるが、ドイツ語では「私を忘れないで下さい」という意味を冒頭の4音で表現している。私の訳では「われをば(ここまででもう、4音が尽きる!)/主よ忘れざれ」「われをば/忘れざれ/いとしき主よ」となる。

必然的に意訳とならざるを得ないし、「私は」「あなたを」といちいち指示するのが日本語としてなじまないこともあって、論理性が多少薄れることもある。それでも、訳詞で歌う時の共感は、原語を墨守する場合よりずっと自然なものになると信じている。

ぜひこの日本語版「宗教歌曲集」の中から、それぞれに好きな曲を見つけ、末永く愛唱していただきたい。声楽を始める人も「イタリア歌曲集」ばかりでなく、これからはドイツ生まれの珠玉にも挑戦してほしい。今回のささやかな出版が日本のバッハ受容史上、「広く大きな転機になれたら」と願っている。(おおむら・えみこ=合唱指揮者)

(大村恵美子訳詞『J.S.バッハ宗教歌曲集』、1996年12月刊、制作:丸善プラネット)





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